兄の晩年を知らない

 

兄とは4歳違い。

まだ少し肌寒さが残る5月下旬に、兄は死んだ。

42歳だった。

 

今はもう帰ることも無くなった故郷の警察署から電話があった。

私は電話恐怖症で、めったに知らない番号に出ない。

 

刑事が言うには、お嫁さんが出かけている間に起きた「くも膜下出血」だった。

ではなぜ嫁に連絡しないのかと問うたら、母親が緊急の連絡先に私の番号を告げたからだと言った。

 

どうやら母親は生きているらしい。

そしてまた、懲りずに私と連絡を取ろうとしている。

 

こちらの状況を母親や向こうの家族には一切伏せてくれるよう説明し、兄がどうやって死んだのかだけ教えてくれと頼んだ。若い刑事は分かったと言い、手筈を整えてまた連絡をくれるとても感じの良い青年だった。

 

兄とは4年前に電話で別れを告げたのが最後だった。

「俺に兄弟はいない」「小さいころからお前を恨んでいた」「お前ばっかり可愛がられた」そんなことを聞いた気がする。

 

電話越しに震えが止まらなくなった。

声を聞いているだけで、体がガタガタと震えた。

年を取って見える世界がお互い変われば、いつか分かり合える日がくると思っていたけれど、私はずっと兄に恨まれていたのだ。

この日を境に、私はゆっくりと壊れて行くことになる。

 

兄とは長い間直接話すことも無ければ、一緒に時間を過ごすこともなかった。

けれど辛かった家庭環境を共に過ごした兄弟として、いずれどこかで分かり合える気がしていた。

 

でもダメだった。

 

最後に直接会ったのは7年前。

母の病室から実家へ向かう車を運転しながら乱暴にハンドルを切り、いかに運転が上手いか、いかに仕事ができるか私にマウントを取り続けた兄。私がバイクの免許を取ったと言えば、自分はもっと大きいバイクに乗ってやると吹っ掛けた兄。

 

こんなことならバスで実家へ向かえばよかったと、どんどん車に酔う自分を責めた。

常に私より優れていて、常に自分の方が上。

私が従わなければ罵り、暴力を振るう兄だった。

 

何年も音沙汰なく久しぶりに電話を寄こしたと思ったら、何も言わずにウン十万円を貸せと無心するような兄だった。

 

派遣先の仕事場で「気に入らない上司を殴り警察沙汰になった」と自慢げに話す姿を見て、いつか誰かを無差別に傷つけるような社会的な問題を起こすのではないかと心配した。いつも仕事を転々としていた。

 

親や兄がいる地元から離れても地域紙のニュース面を読み漁り、兄や両親と年齢や性別が一致する事件、事故を探す日々だった。いつかそんな問題で、私の人生に陰りが出ると信じていた。

 

でも、何も起こらないまま兄は息を引き取った。

誰にも看取られることもなく、突然死んだ。

 

電話をよこした刑事が兄のことを「大きい方だなと言う印象」と言った。

私の知っている兄は、中肉中背の猫背の男で、大きい人だなんて誰からも聞いたことがない。すでに私の知らない人になって居たようだ。

 

だから私は、兄の死に際を知らない。晩年も知らない。

もう恐怖するものは無いけれど、あっけなく逝ってしまったのかと思うと少し複雑だ。

 

最後に交わした電話で、「俺の心は中2で死んだ」と言っていた。

「死んだとは、毎日音のない世界なのか。例えば水面に雫も落ちないような静寂の世界なのか」と聞いたら、「おう」とだけ答えた兄。

 

「もうお前とは一切連絡を取らない」と宣言し、私もそれに応える形で「兄ちゃんも幸せになってね」と言ったっきり。

 

いつも兄を怒らせないように、自分の怒りを押し殺して言葉を交わした。最後の電話もまたそうだった。

 

これで良かったのか、悪かったのか。

ただ、不思議と最後のやり取りに後悔は無い。

 

恨みや辛みを残すような言葉を決して言わなかった自分自身に十分満足しているからだろう。自身の怒りや恐怖をぐっと飲みこんで、これが本当に最後に交わす言葉だからと、たった数秒の間に慎重に言葉を選ぶことが出来たから。

 

あの時、私は血を分けた兄弟を失った。

だから、刑事に兄の死を告げられても、今更驚きはしない。

 

ただ、ふとした時に心でこう呟いてしまう。

せっかく血を分けた兄弟と本当の兄弟になりたかったと。

 

ごくごく普通の。ありふれた会話をし、時には頼り合うような、そんな兄弟になりたかった。

 

私には一生を経てもなお、足りないものがある。

 

普通の両親、

普通の兄弟。

普通の会話に

普通の暮らし。

 

そういうものが欲しかった。

だけれどもそういった「普通」は手に入らないのだから、今ある幸せを見つめて生きる他ない。

 

兄はやっと穏やかになったのだろうか。

それとも、悔いを残して死んだのだろうか。

今はもう誰にも分からない。